世界難民デー

本日6月20日が世界難民デー。

日本で難民という言葉が使われる時、それは軽くて
ネットカフェ難民とかランチ難民とかちょっと困ったな、というような時に使われてしまう。
インスタグラムのハッシュタグで #難民キャンプ を見ると普通のキャンプ場だったりする。
そう日本で難民について考えるチャンスや実際に会う機会なんてほぼない。
ほぼないのに難民を受け入れようとか支援しようとか考えようとか中々想像することすら難しいだろう。
ましてやどうして難民がうまれてしまうのか?ということそれを解決するにはどうしたらいいのか?と頭を悩ませること、そんなところまで思い悩むことなんであるだろうか?ない。絶対ない。

わたしが初めて難民と出会った時、それは2015年だった。
2015年は中東やアフリカから地中海を超えてまたは南アジアからヨーロッパに難民が押し寄せた年だ。
その数、100万人。
当時地中海の島マルタ共和国に住んでいたわたしはアフリカから地中海を超えてイタリアに向かう船が座礁する事故の追悼イベントをきっかけにヨーロッパの難民の身近に感じるようになった。
仕事を辞め会社の借上たアパートメントで暮らしていたわたしは住む場所がなくなり、イタリア人でレストランのオーナーシャフであるステファノの家に居候することになった。週末のランチタイムの忙しい時、わたしがキッチンのヘルプに入ることもありレストランで働く人たちと交流を持つ機会を得た。ホールは共同経営者のトーマス、アルバイトのイギリス人女性がいた。すでに顔見知りだった。

怒涛のランチタイムを終え、夜の営業スタッフの出勤の時間になった。わたしはステファノの愛犬スコットと帰宅しようとしていた。
すると黒人の少年が入ってきた。本当に小柄な少年だった。その彼が実は難民だったのだ。
話を聞くと母国で内戦があり、体にもその戦火の名残の傷があり命からがらヨーロッパに
逃げてきたのだった。そして難民認定を受け今に至るそうだ。
傷を笑いながらわたしに見せていた。
笑えないよ。でも笑うしかないんだ、とまだあどけないこの子を見てそう思った。

2015年秋から冬にかけてわたしはフランクフルトに住んでいた。メルケル首相が
難民を歓迎する声明を発表しドイツは世界有数の難民受け入れ国となった。
しかしドイツ国民の生の声は違った。
受け入れなければならない過去の歴史と現実に抱える問題、国民は混乱しているように思えた。
ナチスドイツがユダヤ人を迫害した歴史、トルコ移民の失業率の高さ、統一したドイツは
ヨーロッパ随一の経済発展・安定をしているように見えるが東西格差は未だ埋まらずにいた。そこに大勢の難民が保護される。失業者、難民、すべて税金で賄われる。大きな声じゃ言えないけどね、所得税は収入の4割よ!信じられない。そうフランクフルトの人は言っていた。でも仕方ない、とも。

よく考えてみよう。なぜ難民が生まれてしまうのか。
なぜ紛争があるのか。 なぜ話し合いじゃなく戦争になってしまうのか?
わたしたちは関係ないわけじゃない、物理的な距離は遠くとも当事者なのだ。

第一次世界大戦で世界が国という概念を受け入れた。
その国境という見えない線見えない壁は特に中東地域では部族間の争いを誘発したり
1部族が数カ国に分裂してしまったりするラインだったりした。
戦争があれば武器が売れる。
支援金額が・・と報道されてもそれが武器支援だったりもする。

難民の保護、支援ももちろん重要。目の前の命が大事。
難民を生まない世界についても考えていきたいと思う今日この頃です。
そして難民が認定を受けた後の生活についても。

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